今井ダイアリー

おいでやす!わてが今井マチ子です

2020.09.05
おいでやす!わてが今井マチ子です


「ひえ〜!また親子丼かいなあ!勘弁してえなあ。何日続けて親子丼食わせたら
気すむねん。」

「何言うてんの!ごちゃごちゃ言わんとさっさと食べ!昨日のんと今日のどっちが美味しいか早よ言うて!」

まだ戦争の爪痕が色濃く残る、昭和25年頃の道頓堀。
雨風を凌ぐには何とか事足りるバラックで暮らす今井家から、こんなやり取りが聞こえていました。
「道頓堀 今井」の創業者・今井寛三の妻・マチ子は、納得のいく親子丼を創る為に、悪戦苦闘の毎日でした。


 寛三は数年前まで道頓堀の今と同じ場所でヴァイオリンやサキソフォンを売る「今井楽器店」を営んでおりました。
大正から昭和にかけて洋楽器を扱うなんてそれはそれはハイカラな旦那さんでした。
マチ子はその楽器店のごりょんさん(若奥さんのこと)。3人の子供達にはそれぞれに女中さんも付いて、家事といえば食事の献立を決める位のものでした。

マチ子の生家は卸酒屋で兄2人の下のひとり娘。
健康にも恵まれ何不自由なく育てられました。
府立夕陽ヶ丘女学校を卒業後は
お茶、お花、割烹学校に裁縫学校、と花嫁修行に励んでおりました。
先々マチ子を支える事になる彼女のキャラクターはこの頃に作られたんでしょうねえ。

そんなマチ子はまさか自分がうどん屋の女将になるなんてこれっぽっちも
思っていなかったに違いありません。
「こんな私につとまるやろか—」てなことも全然思ってなかったようです。
「やらなしゃあない。どうせやるならええもん作ろ。」
子供の頃からええもん食べさせてもろて育ったマチ子には、何となくですけど、味に自信はありました。

口の肥えたご贔屓さんからも色々とアドバイスを戴きながら試行錯誤を繰り返す内に、マチ子の自信は確信へと変わって行きました。

「勝手な事してもろたら困りまっさかいに、男の職人は使いまへん!」

自分が作り上げた『今井の味』は、そこらの料理人には負けてない、という思いから出た言葉でしょう。

マチ子は味の監修にとどまらず、接客でも持ち前のキャラクターを存分に発揮していました。

はっきり言うて—無茶苦茶ですわ。お客さんにでも、歯に絹着せぬ物言いで言いたい事言うてました。
その当時人気絶頂やったブルースの女王、淡谷のり子さんが久しぶりに東京から帰ってきて来店された時のことです。

淡谷さんが「いやあ、お母ちゃん久しぶり〜。東京で今井のうどんが食べられへんのが淋しいわ〜。あっちにもお店出してえなあ。」と、もちろんお上手も込めて言わはった時です。

マチ子はニコリともせず
「あんた、毎日食べに来てくれはりまっか?それなら考えまっけどな!」

淡谷さんも周りも一瞬凍りついた事でしょう。
それでも、表裏がなく面倒見のよいマチ子の人柄は多くのお客さんから慕われていました。

毎朝配達に来る取引先のボンちゃん(若い子)には
「お腹空いてるやろ?なんか食べて行き。」と声をかけてました。
それでもマチ子の姿が見えない時には
「あのうるさいお母ちゃん今日は居れへんのんか?」とお客さん。
憎めないけどちょっとうるさい、みんなのお母ちゃんになってたんですね。


 昭和30年の秋、息子の清三が後を継いだ後もマチ子は元気に店に立って居ました。
ところがある日、脚立に乗って神棚の掃除をしてた時に転落してしまい、腰の骨をおる大怪我をしてしまいます。
これを機にマチ子が店に立つことはなくなりました。その後は寛三と2人でゆっくりと日本全国への旅行を楽しんでいました。


最後にマチ子らしい旅先でのエピソードをひとつ。

寛三と2人で初めて飛行機に乗った時のことです。
離陸して間も無くするとマチ子の前に黄色いおしぼりが運ばれて来ました。
マチ子はそのおしぼりが置かれるや否や手に取って、「ガブリ!」何と、かぶり付いたのです。

ビックリした寛三が「何してんねん!」と言うと
「カステラかと思たらおしぼりやった。」
食にとことん貪欲だったんですねえ。

# よもやま話